2015年3月19日木曜日

賢さについて再考・算数編

半年ほど前に「それでは、賢さって何だろう?」というタイトルで、そのときにつらつらと考えたことを書いた。

最近は、なおの家庭教育、特に算数と国語の計画を立てる際に学力とは何かについて悩んでいる。



算数に関しては、中学受験における受験勉強がどの程度その後の勉学に役立つのか、という疑問がある。

私が大学生の頃の話だが、中学受験の算数の指導は、いくら大学入試で優秀な成績を修めていても、中学受験を自分で経験していないとできない、と言われていた。まあ実際には私は中学入試は経験していないものの、無理矢理対応していたが、それでもさすがにいわゆる最難関校の算数には手が出なかった。実際には、手が出るかどうかわからないが、それを見極めるための勉強をする時間もやる気もなかった、というべきか。

これは見方を変えると、中学入試のための勉強は特殊な訓練であり、必ずしも後で求められる数学の学力とは直結していないということでもある。

もっとも、ややこしい話だが、これは中学受験の算数が無駄だということを必ずしも意味しない。最終的な数学の学力に至る訓練にはいくつかのやりかたがあり、中学受験の算数がそのひとつであるということにすぎない。



もちろん、より広い意味での「賢さ」を考えるためには、激動の現代を生き抜くための賢さを身につけなくてはいけない、ということになるが、そんな賢さがなんなのかは誰もわかっていない。

日経ビジネスオンラインの「10年後に残る仕事、消える仕事-働き方の未来についての身も蓋もない結論」という記事を読めば、4年前に書いた"Did you know? Shift happens."のメッセージが我々の子どもたちの生きる世界の現実になりつつあるのがわかる。



もっと卑近な話、なおの学習計画をどうしようか、ということについてはまた今度。

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